日常・映像・写真・旅・絵、自分の身の回りでおこる出来事を抽象的に。
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地震が起きたとき僕は福島にいた。
スキー場でのロケハンの途中で、山が大きく揺れた。
雪崩の危険があるということで、クルーと共に急いで下まで滑りおりて、状況がわかるまでしばらく現場待機となった。
確かに山がものすごい音をたてて揺れてはいたが、スキー場で地震にあうのが初めてだったこともあり、危機感というか巨大地震が起きたという実感はなかった。
結局ロケハンは中止となり、ホテルでの待機となった。
ホテルまでの道中、ラジオから流れる悲惨な情報に皆が唖然となった。
被災地となってしまった場所に住む人もいたが、当然携帯は通じない。
都内の家族に連絡する人も、電波が込み合っていて通じない。
Twitterやテレビ、そこから流れてくる情報をただただ受け入れるだけだった。
ホテルに入ってからも余震が続き、食料を買い出しにコンビニに行くもほとんど売り切れ、ざわざわっとする状況ではあったが、ベットの上に横になってただただ受け入れる悲惨な状況には、正直なところリアリティがなかった。
これは自分だけなのだろうか?
スキー場というある種特別な場所で地震にあったからなのだろうか?
情報ばかりがどんどん入ってきたからなのだろうか?
原因はよくわからないが、あの時、正直、リアリティがなかった。
東北道や4号線が通行止めになったということで、状況をみながら新潟まわりで都内に戻ろうということになった。
夜には、撮影する予定だった次の日の大会が中止になり、スキー場も閉鎖が決定。
地震とスキー場閉鎖にともないホテル代の払い戻しが決定した。
ホテル側の迅速な対応には驚いた。
次の日の朝、隣のホテルで朝食をとり、そして出発。
おそらくホテル側の自主的な意向で無料開放されていたような気がする。
予想通り磐越道もしばらくは通行止めのようで、新潟方面へはしばらく一般道で向かった。
内陸部だったからだろう、道路状況がひどいということもなく、普通に走行できた。
車は走っていたし、人影もあった。
相変わらず電話は通じにくかったが、それ以外際立って変わったところはなかったように思う。
ただ、ガソリンスタンドには既に車の列ができていた。
ラジオやTwitterから地震情報と原発の情報が流れ続ける。
高速の通行止め区間を回避し、新潟を経由して北陸道から関越道へ。
時間はかかったが夕暮れ時に無事に都内に到着した。
車の中から眺めていたからだろうか、
都内は特に何の変化も見てとれなかった。
いつもと変わらぬ夕暮れ。
夕陽の差し込む国道には車が走る。
拍車をかけて入ってくる情報が宙に浮いているような感覚だった。
やはり正直なところリアリティがなかった。
それはもちろん被災地にいたわけではないし、ほとんどなんの被害も受けていない。
間違いなくリアルではないことなのだけれど、それでも同じ日本で起きた巨大地震なのに、なんでこんなにも実感が湧かないのだろうかと、思ってしまった。
あれから一週間、テレビから流れる被災地は依然として厳しい状況にある。テレビに映らない部分では、もっともっと悲惨な状況なのだろう。
にもかかわらず、都内では一部商品の売り切れが起こり、あれがないこれがないと言っている。流通の問題でないならば、どうして買い占めなどするんだろうか?
被災地の「ない」は、僕らの「ない」とは比べ物にならないのに。
どうしてそれがわからないのだろう。
計画停電により都内にもかなりの影響が出ている。
信号が消え、交通事故も起こっている。
被災地の復興を第一に、続いて起こる災害への対応が問われてくるのだろう。
自分に何ができるのか考えようと思う。
募金もいいだろうし、ボランティアもいいと思う。
ただ、ボランティアについてはTwitterを通して賛否両論いろんな情報が入ってきた。
ハッとしたものも数多くあった。
僕も以前、新潟県中越地震の時にボランティアに参加したことがある。
何かできることをと思って、現地に出向いたのだが、やはりボランティアの難しさがそこにはあった。
ボランティア団体に参加する人達は被災地で生きるわけで、被災者への食料を食べることになる。
団体で行動する強みと、誰もブレーキをかけられずにズルズルとしてしまう怖さもある。
言ってしまえば、プロではないのだ。
僕がいた団体には、各地から野菜など被災者への救援物資が団体宛でたくさん届いていた。
積みあげられた食料。どうしてすぐにでも配らないのか⁈いろんな理由はあるにせよ、何かすごく腹立たしかった。
時間が経って腐っていく食料。
ものすごい矛盾を感じた。
矛盾を感じながらも、マンパワーで少しでも食料を配ることを提案しそれを届けた時の被災者の笑顔。
なんだかどうにもスッキリしない思いだけが募っていった。
結局、一週間程活動する予定だったが、いてもたってもいられなくなり、団体のリーダーに自分の思いを伝える形で、僕は新潟から帰ってきた。
帰ったというか、逃げたのかもしれない。
今でもどうすればいいのか、どうしたらよかったのか、それはわからない。
だけど、ボランティアとして被災者が元気になって笑顔になる瞬間に出くわした時、少しでも力になれたきてよかったとも思った。
結局何をどうすればいいというものは存在しないし、今自分の頭で考えてできることをするしかないのだと思っている。
自分には何ができるのだろう。
スキー場でのロケハンの途中で、山が大きく揺れた。
雪崩の危険があるということで、クルーと共に急いで下まで滑りおりて、状況がわかるまでしばらく現場待機となった。
確かに山がものすごい音をたてて揺れてはいたが、スキー場で地震にあうのが初めてだったこともあり、危機感というか巨大地震が起きたという実感はなかった。
結局ロケハンは中止となり、ホテルでの待機となった。
ホテルまでの道中、ラジオから流れる悲惨な情報に皆が唖然となった。
被災地となってしまった場所に住む人もいたが、当然携帯は通じない。
都内の家族に連絡する人も、電波が込み合っていて通じない。
Twitterやテレビ、そこから流れてくる情報をただただ受け入れるだけだった。
ホテルに入ってからも余震が続き、食料を買い出しにコンビニに行くもほとんど売り切れ、ざわざわっとする状況ではあったが、ベットの上に横になってただただ受け入れる悲惨な状況には、正直なところリアリティがなかった。
これは自分だけなのだろうか?
スキー場というある種特別な場所で地震にあったからなのだろうか?
情報ばかりがどんどん入ってきたからなのだろうか?
原因はよくわからないが、あの時、正直、リアリティがなかった。
東北道や4号線が通行止めになったということで、状況をみながら新潟まわりで都内に戻ろうということになった。
夜には、撮影する予定だった次の日の大会が中止になり、スキー場も閉鎖が決定。
地震とスキー場閉鎖にともないホテル代の払い戻しが決定した。
ホテル側の迅速な対応には驚いた。
次の日の朝、隣のホテルで朝食をとり、そして出発。
おそらくホテル側の自主的な意向で無料開放されていたような気がする。
予想通り磐越道もしばらくは通行止めのようで、新潟方面へはしばらく一般道で向かった。
内陸部だったからだろう、道路状況がひどいということもなく、普通に走行できた。
車は走っていたし、人影もあった。
相変わらず電話は通じにくかったが、それ以外際立って変わったところはなかったように思う。
ただ、ガソリンスタンドには既に車の列ができていた。
ラジオやTwitterから地震情報と原発の情報が流れ続ける。
高速の通行止め区間を回避し、新潟を経由して北陸道から関越道へ。
時間はかかったが夕暮れ時に無事に都内に到着した。
車の中から眺めていたからだろうか、
都内は特に何の変化も見てとれなかった。
いつもと変わらぬ夕暮れ。
夕陽の差し込む国道には車が走る。
拍車をかけて入ってくる情報が宙に浮いているような感覚だった。
やはり正直なところリアリティがなかった。
それはもちろん被災地にいたわけではないし、ほとんどなんの被害も受けていない。
間違いなくリアルではないことなのだけれど、それでも同じ日本で起きた巨大地震なのに、なんでこんなにも実感が湧かないのだろうかと、思ってしまった。
あれから一週間、テレビから流れる被災地は依然として厳しい状況にある。テレビに映らない部分では、もっともっと悲惨な状況なのだろう。
にもかかわらず、都内では一部商品の売り切れが起こり、あれがないこれがないと言っている。流通の問題でないならば、どうして買い占めなどするんだろうか?
被災地の「ない」は、僕らの「ない」とは比べ物にならないのに。
どうしてそれがわからないのだろう。
計画停電により都内にもかなりの影響が出ている。
信号が消え、交通事故も起こっている。
被災地の復興を第一に、続いて起こる災害への対応が問われてくるのだろう。
自分に何ができるのか考えようと思う。
募金もいいだろうし、ボランティアもいいと思う。
ただ、ボランティアについてはTwitterを通して賛否両論いろんな情報が入ってきた。
ハッとしたものも数多くあった。
僕も以前、新潟県中越地震の時にボランティアに参加したことがある。
何かできることをと思って、現地に出向いたのだが、やはりボランティアの難しさがそこにはあった。
ボランティア団体に参加する人達は被災地で生きるわけで、被災者への食料を食べることになる。
団体で行動する強みと、誰もブレーキをかけられずにズルズルとしてしまう怖さもある。
言ってしまえば、プロではないのだ。
僕がいた団体には、各地から野菜など被災者への救援物資が団体宛でたくさん届いていた。
積みあげられた食料。どうしてすぐにでも配らないのか⁈いろんな理由はあるにせよ、何かすごく腹立たしかった。
時間が経って腐っていく食料。
ものすごい矛盾を感じた。
矛盾を感じながらも、マンパワーで少しでも食料を配ることを提案しそれを届けた時の被災者の笑顔。
なんだかどうにもスッキリしない思いだけが募っていった。
結局、一週間程活動する予定だったが、いてもたってもいられなくなり、団体のリーダーに自分の思いを伝える形で、僕は新潟から帰ってきた。
帰ったというか、逃げたのかもしれない。
今でもどうすればいいのか、どうしたらよかったのか、それはわからない。
だけど、ボランティアとして被災者が元気になって笑顔になる瞬間に出くわした時、少しでも力になれたきてよかったとも思った。
結局何をどうすればいいというものは存在しないし、今自分の頭で考えてできることをするしかないのだと思っている。
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プロフィール
HN:
NISHI
年齢:
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HP:
性別:
男性
誕生日:
1982/09/25
職業:
映像系
趣味:
映画 旅 写真 画
自己紹介:
フリーランスで映像制作しています。
2014年から自宅を飛び出し5人の仲間たちと共同作業場を借りました!
映像制作traveloqu(トラベローク)にてMusicVideoやLIVE映像など音楽系の映像を中心に活動中。最近はTV番組やドキュメンタリー映画にも参加。
編集ではFCPからPremiereへと乗り換え、Adobe族に。
目指すは「イメージの具現化」
NikonのF3で写真撮ったり撮らなかったり。
今年の目標は「図太く図々しく!」
やりたいなら何がなんでもやるんだよ!
と、自問自答を繰り返しています。。。
2014年から自宅を飛び出し5人の仲間たちと共同作業場を借りました!
映像制作traveloqu(トラベローク)にてMusicVideoやLIVE映像など音楽系の映像を中心に活動中。最近はTV番組やドキュメンタリー映画にも参加。
編集ではFCPからPremiereへと乗り換え、Adobe族に。
目指すは「イメージの具現化」
NikonのF3で写真撮ったり撮らなかったり。
今年の目標は「図太く図々しく!」
やりたいなら何がなんでもやるんだよ!
と、自問自答を繰り返しています。。。
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